刑法学(犯罪学)における有名な論争として,非決定論と決定論の争いがあります。
法学部の1年生や2年生が,最初の頃に学ぶ論点です。
法学というよりは,むしろ哲学的な言い争いであるため,実務とはまったく関係ありません。
ですが,どうにも知的興味を誘って心を捕らえる話なのです。
ごくごく簡単にまとめると,こうです。
伝統的な考え方である非決定論は,人間の自由意思を認めます。
人は,その自由な意思に基づいて行動すると考えるのです(そのため,非決定論のことを意思自由論とも言います)。
だからこそ,自らの意思で犯罪行為をした者に対して,刑罰という道義的な非難を向けることができると考えます。そして,やってしまった罪へのむくい(応報)として,その罪と等しい重さの罰を与えるのです。
それによって,犯罪行為の軽重と処罰を世間に知らしめることができ,犯罪は自然と防止されます。
刑罰は,軽すぎても重すぎてもいけません。万引き犯を無期懲役刑にすることは許されないのです。
これに対して,決定論では,人の行動は素質と環境により決定されていると考えます。
たしかに,純粋に科学的な視点に立つと,人に完全な「自由意思」があるなどという非決定論の前提自体が,既に幻想なのでしょう。
すると,DNAや生育環境や脳内電気信号で決まってしまった行動(罪)に対して,道義的非難(応報)など無意味です。
大切なのは,二度と罪を犯さないように国家が素質と環境を矯正することです。刑罰とは,個々の犯罪者の更生に向けた教育活動なのです。
そうなると,再犯防止のために必要な教育の範囲で刑罰が認められるのですから,犯した罪との均衡は問題になりません。再犯がないと確信できれば強盗犯でも処罰する必要がないし,痴漢をやめられない人には教育効果が上がるまで刑罰に何十年かけてもよいのです。
さて,皆さんならどちらが正しいと考えますか?
どっちも正しいような気がします……。
実際,応報刑と教育刑はどっちも大事で,実際の刑罰でも両方の考え方が使われています。
しかし,理屈の上では,両方とも正しいというわけにはいきません。
人間に自由意思があるのか,ないのか?
人間の行動はあらかじめ決定されているのか,いないのか?
どちらかしかあり得ないのです。
この論争は,人間に対する本質的理解の違いから出発しています。これについて真剣に考え出すと,堂々巡りでキリがありません。いわゆる「答えのない問題」のひとつだとも言えます。
しかし,刑法理論の出発点であるこの論争にどうにかして応えなければ,犯罪と刑罰について自分の考えを論じることはできないのです。
両派の考え方を止揚する第三の学説が色々と試みられていますが,まだ誰もが納得するような答えは提示されていません。
そのため,学者や法律家は皆,この問題について,いったん自分なりの「仮の答え」を出さなければなりません。そして,そこから自分の立場や考え方を積み上げるようにして導くのです。
それは,砂上の楼閣を築いては壊し,築いては壊す,果てしない道程にすぎないのでしょうか。
それもまた,人間という存在の本質なのかもしれません。
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